大相撲

横綱の代からみた国技館 3

メモリアルホールは占領軍に接収された。それだけ
ではない。日本人立ち入り禁止の立て札が立った。

大相撲は開催場を求めてジプシーの状態がしばらく
続いた。東京場所は明治神宮外苑、浜町仮説国技館
で興行した。大阪でも本場所を開催した。昭和22年
から24年までのことであった。

昭和24年から蔵前仮説国技館で始まった。蔵前は戦
前協会が購入し、倉庫会社に貸していた。ここに新
たに国技館を建設することにした。

<蔵前国技館の絵葉書>

蔵前国技館が完成したのは昭和29年秋場所だった。
その時の横綱は東富士、千代の山、鏡里、吉葉山で
あった。前田山、羽黒山、照國はすでに引退してい
た。また、東富士はこの場所後引退した。この後の
横綱は栃錦から大乃国までが横綱として蔵前国技館
に登場した。

蔵前国技館の鉄骨は旧海軍航空隊の飛行場の工場を
組み立てた鉄骨であった。そのため約31年間使用後
新しい国技館に場所に移した。新しい国技館を建設
することは一代事業であった。横綱は北の湖、千代
の富士、北勝海から照ノ富士までが土俵にあがった。
もっとも北の湖は2日間土俵に上がって連敗して引
退している。

<両国国技館>

相撲の常設館で観戦することは現代では当たり前に
なっている。しかし、大相撲の歴史にとって大変革
に相当することであった。

(この項目終わり)

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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