■小錦
昭和59年七月場所、20歳で入幕。黒船来航と
戦風を起こしたのは翌場所であった。圧倒的
パワーで2横綱、1大関から勝利。最後に
大関琴風が止めた。12勝3敗の好成績を残
した。一方13勝2敗で優勝した多賀竜は2大
関と対戦しただけという不公平さであった。
蔵前国技館最後の場所はアンフェアで幕を
閉じた。明日のホープ小錦は期待に応え、
その後外国人初の大関に昇進した。そのとき
23歳であった。大関昇進後は苦しい成績が
続いたが平成元年十一月場所で初優勝。
平成3年十一月場所から平成4年三月場所
において小錦が次の成績をあげた。13勝優勝
-12勝-13勝優勝。横綱に最も近い成績だっ
た。結論からいうと横綱とはいかなかった。
前提があった。三月場所中に発売された文芸
誌に「外国人横綱はいらない」と題した文章
が掲載されたのである。これは人種差別だと
大騒動となった。小錦の件があればこそ、
のち、外国人横綱を排除する動きは沈静化
した。小錦は翌場所9勝に終わり、チャンス
を逃した。大関を降格後も長く相撲を取り、
33歳で引退した。
■琴錦
2代目琴錦である。平成元五月場所、20歳で
新入幕を果した。F1相撲と呼ばれるほど
スピード相撲だった。舞の海がフェイント
気味の立ち合をしたが、まったく意に介さず
一直線でもっていったことがある。実力は
超強豪関脇クラス。優勝2回、殊勲賞7回、
敢闘賞3回、技能賞8回、金星8個獲得。
小結13場所、関脇21場所務めた。すべての
数字が違いすぎた。相撲内容は魅力にあふれ
ていた。
味噌をつけたのは、女性問題であった。平成
3年三月場所直前琴錦婚約のニュースが流れ
た。これに対し、琴錦は別に女子大生がいる
と主張して、彼女への釈明に新幹線で関東に
向った。だが、婚約者と報じられた女性は
既に妊娠しており、人道的に結婚せざるを
得なくなっていた。あわや重婚になりかね
なかったほどの騒動になってしまった。
相撲は最後十両で取って引退した。32歳で
あった。
■貴花田(貴乃花)
花田家3代に渡る大相撲への貢献は大変な
ものがある。3代目として登場したのが、
平成元年五月場所新入幕を果した貴花田で
ある。まだ17歳だった。最初の試練は新入幕
で4勝11敗と十両に逆戻りしたことである。
だが、新入幕から11場所目の平成4年一月
場所に優勝したときは日本中を熱狂させた。
まだ19歳であった。だが初優勝の翌場所は
5勝10敗と大敗した。まだ本当の地力はつい
ていなかった。その年の九月場所、2回目の
優勝を足がかりに大関に昇進した。20歳で
あった。
ここからが貴ノ花の試練であった。14勝優勝
-13勝-12勝、14勝優勝-11勝-14勝優勝、
14勝優勝-11勝-15勝優勝。りっぱな成績を
あげても連続優勝でないため、横綱になれ
ないのである。優勝なしの双羽黒を昇進させ
たあげく、前代未聞の相撲界廃業が原因で
ある。いくらなんでもこの当時の横綱昇進
基準は極端に走りすぎた。貴乃花が横綱に
なったのは大関11場所在位後で、22歳のとき
であった。平成13年五月場所も武双山戦の
負傷が致命的になって引退した。30歳であっ
た。功績から一代年寄を贈られた。
■若花田(3代目若乃花)
花田家3代のもう一人の3代目が若花田で
ある。平成2年九月場所、19歳で入幕した。
弟貴花田を追うように出世してきた。初優勝
は平成5年三月場所で22歳のときであった。
その勢いのまま大関に昇進した。22歳のとき
である。若乃花の横綱はないと見られていた。
ところが、ワンチャンスを生かし、連続優勝
して横綱に昇進した。27歳のときであった。
若乃花の場合、横綱より大関時代のほうが、
成績がよかったという皮肉な結果となった。
横綱優勝なしのまま引退した。29歳であった。
■巴富士
冨士といえば現代では伊勢ヶ濱(元旭冨士)
部屋が多数輩出しているが、一時期九重(元
北の冨士) 部屋 のときがあった。巴富士は
その一人であった。平成3年一月場所20歳で
入幕した。この場所唯一の三賞、敢闘賞を
受賞している。幕内は17場所務め、最高位は
小結であった。その後十両に落ち、10場所
務めた。番付はさらに下がる一方で、幕下
以下が20場所に及んだ。最後は三段目で引退
した。27歳だった。
(この項目続く)
隣町にいってきました。
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